インタビュー

告白 衝撃の第二弾 薬物、事故、少年刑務所、そして歌舞伎へ

ゆうしゃ ゆうと
27歳・6月16日・A型・168センチ

今まで語ることのなかったこれまでの人生を本誌で初激白する「告白」。今回は今月末(予定)に拡大移転するレジスタンスから“ゆうしゃ ゆうと”クンが登場。彼が歩んできたこれまでは、他の誰よりも衝撃なものだった…

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RESISTANCE
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九死に一生を得た交通事故
そして少年刑務所へ

学校側から登校拒否命令
薬物に溺れた14歳

僕の育った街は兵庫でも有名なちょっと柄の悪い地域(笑)。姉と妹の3人兄妹で男1人だったから父親が僕にだけものすごく厳しかったんですよね。その反発もあって家に帰らず、ほとんど祖父の家で過ごしていました。小4で父親的存在だった祖父が他界し、拠り所がなくなってしまい、小5のときには学校にもほとんどいかず遊んでばかりいました。中学に上がっても、相変わらず学校には行かないで友達と遊ぶ毎日。むしろ先輩たちともツルむようになったおかげでもっと悪い方向に。
中1でバイク、中2では車に乗り、ひったくりで逮捕もされました。さらにその頃から薬に手を出したんですよね。中3になっても生活はそのままで、ヒドいときにはラリった状態で学校に行ってましたね。学校側から「みんなが怖がるから学校に来ないで欲しい」と言われてしまい、その時は「ふざけんなよ」ぐらいに思ってましたけど、普通に考えて、ラリってる状態のヤツが学校にいたらみんな嫌ですよね。
父親との関係も最悪で、完全に祖母の家で暮らすようになりました。祖母が何も知らないコトを良いことに、そこをたまり場にしてしまい、挙げ句に薬をやり放題。でもさすがにこれはマズイと思って働く決意をしたんです。けど中学生を雇ってくれるとこなんてなく、先輩の紹介であっち系の人がやっている現場で働くことに。そこには地元でも有名な悪い先輩たちが大勢いたこともあって、自分もその仲間に入ったつもりで良い気分ではいたんですが、さすがに日給5000円は辛くて。辞めるに辞めれないから、逃げたんですよね。そしたら見つかってしまい、トランクに詰め込まれ、誰もいない埠頭に連れて行かれてボッコボコにされて、本当に死を覚悟しました。でもその状況を助けてくれたのが、実は父親なんです。現場の親方と話をつけてくれて僕は解放されたんですが、その時は「なんやかんやで助けてくれるんやな」程度にしか思っていなく、また悪い方向へ戻ったんですよね。
16歳になっても薬を止められず友達とバカなコトをやって毎日を過ごしていました。ある日、友達と車で出かけた日のこと。気づいたら病院のベッドでした。頭はぱっくり割れて、体中傷だらけでいろんな管が身体に付けられていました。状況を理解するまでに少し時間がかかりましたが、交通事故に遭ってたみたいです。事故をきっかけにこれまでのコトが全て公になって、退院後に少年刑務所へ行くことなり、そこで科せられたのが8年という刑でした。

高校に行かず暴走族に入り知り合いの現場で働いていた16歳。この後、大事故に遭って、そして少年刑務所へ

少年刑務所の中では本当に真面目に過ごしました。少年刑務所のある場所が、実家から片道2~3時間かかるんですが、ちょくちょく両親が来てくれて、特に母は週2回も。面会時間わずか15分程度のためにですよ。さらに父が「息子が行ったことは全て親の責任」と言って、先々で土下座をしていたことを知りました。見放されていたと思っていた父が僕のために頭を下げているコトを知り、さすがに申し訳ない気持ちになりましたし、これを機会に本当に変わろうと。そしてこの8年をどう過ごすかを真剣に考えました。今まではムカついたら殴る世界で生きてきましたが、この中ではそんなコトは通用しません。中に入ってくる人はプライドの塊みたいなものだから、同じテンションで接すればぶつかるだけ。なので、誰に対しても謙虚に礼儀正しく接するようにしました。少年刑務所の中にも地位(役職みたいなもの)がちゃんとあって、行動が認められれば、どんどん上に行けるんです。いつしか1番若くて1番偉くなってなってしまったんですが、やはり全員に対しては変わらず謙虚に接していました。有名な悪い人(発言力がある人)が入ってくれば即座に味方につけるようにもしましたね。ここでだいぶ対話の大事さや、人を見る目が養えたと思います。この頃、通信で高校の勉強をして卒業することもできました。社会復帰したときに、みんなに置いていかれるのは絶対に嫌だったし、すぐに役立つ知識を身につけるために経済などの勉強もしました。
成人式を中で迎え、その時両親に手紙を送るんですが、僕は迷惑をかけてしまって本当に申し訳ない気持ちと生んでくれたことへの感謝の気持ちを書きました。両親からも手紙をもらったんですが、中には「いろいろあったけど、私達の子どもに生まれてきてくれてありがとう」と書いてありました。この手紙を読んだ時、自分は本当に大事にされていると改めて実感し、もう二度と家族に迷惑はかけないと誓い直したんです。

社会復帰と会社設立。しかし…

8年間の刑期を終えて地元に戻り、父親にも相談に乗ってもらいつつ、ずっと考えていた運送会社を起こすことになりました。父も運送業だったので、いろいろとアドバイスをもらいながら、段々と軌道に乗るまでになってきました。休みの日に従業員と遊ぶためにバイクで家まで向かってたその時、一時停止を無視した車と接触。意識不明の重体となって病院に運ばれたんです。右足がぐちゃぐちゃになって、何本もボルトを入れられ、リハビリを含めると社会復帰まで1年以上かかると告げられました。それでも何とか早く復帰しようと毎日リハビリを行っていたのですが、親会社から言われたのは「保険金目当て」「過去があれだから」という言葉。そして退院しても行き場がなくなり、自暴自棄になってしまい、酒に溺れる毎日に。このままだと自分がダメになることが目に見えてたので、1度リセットするために上京することを決意しました。誰も自分を知らない場所で0からやってみようと思ったんです。

全てはお店のために。
自分に出来ることを模索

未知なる世界“歌舞伎”へ
誇りあるホストとして

とはいえ、まだ身体もそんなに動けないし、学歴もないので上京したところで何が出来るんだろうと思って、1番初めに思いついたのがホストでした。日払いもしてくれるし、寮もあるからと思って軽い気持ちで検索し、たまたまホスホスの1番上にあった「レジスタンス」へ。正直、ホストのイメージは最悪でしたよ(笑)。女に貢がせる仕事っていう認識でしたからね。でも実際中に入ってみるとプロフェッショナルの集まりということがすぐにわかりました。当然、なめていた自分が通用するわけもなく、数ヶ月経っても結果を出せずイライラが募るばかりで、スタッフと喧嘩ばかりしてました。その度に僕に本当に良くしてくれた龍二さんに説教されてましたね。8ヶ月が経った頃、足のボルトを抜く手術をするために一度地元に戻ることになりました。偶然にもその日は、龍二さんのラストの日だったんですよね。3ヶ月後、足は治ったんですが、龍二さんがいなくなったお店に戻る気がどうしても起きなくて…。既に昼職を始めていた龍二さんに電話し「僕も龍二さんについて行きたいです」と。そしたら「何も結果を残していないお前といま一緒に始めても同じ繰り返し。ホストとしてちゃんと結果を残してからまた相談しろ。何よりも蓮士(社長)に申し訳ない」と。その言葉で目が冷めて、今度は本気でホストをやろうと決めたんです。すると3ヶ月も経たないうちにNo.に入ることができました。自分だけに使っていた時間をお客さんのために使うようになり、自分の足りない部分は他の人から学びました。社長、桜井さん、武人さんに事細かにアドバイスをもらいつつ、年下だからとか関係なく、売れているホスト(桜木さん、そらさん、ゆきむら君)にもとことん相談していました。結果、いまの僕があるんです。


全てのホストが売れるなんてのはなく、昼職をやっていた方がよほど生活に困らない人もたくさんいます。そんな人たちのために、受け皿を作りたい、レジスタンスに関わった人間は最後まで面倒をみたいというのが社長が将来的に描いている絵です。少しでもその力になれるよう、僕が出来る全てを捧げるつもりでいます。社長がホストたちの象徴であるなら、僕は裏でそれを支えるような存在になりたいと、本気でそう思っています。

右足は見るも無残な姿に

ホストやり始めのゆうとクン。この頃は喧嘩ばかりしてスタッフを困らせていた

編集後記

彼が中に入っている間、家族に対して周りから誹謗中傷があったらしい。けど、そのコトで彼を責めることはなく、8年前と同じように接してくれる家族に涙。家族愛とはまさにこのコトですね